Waktu Berangkat-旅立ちの時
2002年7月18日、私達3人と大きな荷物をSeraparang空港へ運ぶための知人の車が到着した。家の門の前で家族と記念写真。
1999年、友人と訪れたこの地に往復チケットだけを持って貧乏旅行に現れ、安宿を見つけて滞在していた時に日本語も話せなかった旦那と知り合い、2000年に衝動的に自分の人生を決めて仕事もやめ、単身ここインドネシア・ロンボク島に飛び込んできてから、本当に色々なことがあった。楽しいことばかり思い出す。
ここで私も旦那もろくに仕事もせず、それなのにここで一生懸命働いている人たちよりもたくさんの収入がありのんきに暮らしてきた私達。それというのも、日本で働いている時に貯めた100万円ほどの日本円を持ってきて、こっちの銀行に定期預金して毎月充分な利子をもらっていたから。大体、年利15%、外国人税を払っても月に1%、約1万円の収入ということになる。ここでは25万円もあったら平家の一軒家が建つ。普通に働く現地の人たちの収入は、真面目に働いていてもせいぜい5千円程度。遊び暮らして余裕のある私達の生活を面白く思わなかった人もいたはずだけれど、周りの人たちはどの人も心から親切で、お金や物品目当てで近づいてくるような人はいなかった。
だけど、私達はまだ若い。このまま利子で楽をして暮らしていくような決断はできない。もっと、汗をかいて働かないと。そう思って、3人で日本に帰ることに決めた。
もうひとつ、ここではいくら居心地がよくても暮らしていけないと思った理由。それは、出産後に私がデング出血熱に罹ったこと。この病気は蚊が媒介するもので、きれいな水の溜まっているところに生息する蚊に刺されないように四六時中気を配る必要がある。マラリアのように予防接種や予防の飲み薬などはなく、予防としてはひたすら刺されないようにし、体力を落とさないように気をつけることしかない。不注意にも合計4回も罹ってしまった私は、1回目の時に瀕死の状態になった。数日間、高熱が出たり体温が下がりすぎたり、血圧も短時間で激しく上下したり、頭は割れるように痛くなり、手足はものすごくしびれ、激しい吐き気に襲われたり、本当に死ぬかと思った。でもそんな状態でも回らない頭でひとつだけ思ったのが、これがスモモじゃなくて良かったってこと。新生児や年配の人だったら死亡していた確率が高いと後で聞いた。実際私が治ってから遠い親戚の若い女の子がそれで亡くなった・・・。
こんなに居心地のいい、本気で骨を埋めよう・・・ヒンズー教ではお墓はなく遺骨は海に流すんだけど・・・と思ったインドネシアだけど、病気の心配をしながらは安心して暮らせない。これらが、私達が日本で人生を歩もうと決心した大きな理由。