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日々の小さな出来事や考えた事を脈絡なく綴っています。愛すべきインドネシア・ロンボク島での日々に起こった事、あっという間に育っていく子どもたちの成長記録、私の個人的な記録です。まだまだ建設中のブログではありますが、読んでいただいて、感じた事があればぜひコメントで残してくださればうれしいです。
また、ぜひリンクのblogspot版も訪ねてくださいね!! こちらは結構更新しています♪♪
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2001年5月29日、旦那が先祖がバリ島からロンボク島に移り住んだ家系のため、バリヒンズー教式の結婚披露宴準備。ヒンズー式では頭に生花や豪華な飾りをつけまくるのが必須。20kgは超えてると思う。お、重い・・・。化粧も全て現地の美容師さんにしてもらった。眉をほとんど剃られ、大胆な付けまつげ、tradisional(トラディシオナゥ、英語で言うtraditional)全開のメイクで変身!
今日は披露宴。2000年10月上旬、ヒンズー教に入る儀式があり、10月20日、神前での結婚式があった。そのときにも正装をしたけど、ここまで派手なものではなかった。
日本から駆けつけてくれた私の家族全員(父、母、兄、弟)の準備も完了。母と弟と。私の家族はバリの民族衣装を着るのはもちろん初めて!
弟。意外と似合う!?後ろにこっそり写ってるのは兄。
海を越えはるばるロンボクまできてくれた家族総勢4名。何だか緊張?
披露宴までに手伝いに来てくれた旦那の家族(基本はものすごい遠い親戚でも来れる限り手伝いに来てくれるので、準備がすでに大勢でお祭り騒ぎ!)と一緒に昼ごはん。インドネシアのごはんは絶対にインドネシア式に素手の右手で食べたほうがおいしいっ!!
余談だけど、インドネシアでは、左手はトイレの時にお尻を洗うのに使う不浄な手とされていて、右利き、左利き関係なく、食事は絶対に右手でと決まっている。人にものを渡したり受け取ったり、指を指したり合図をしたり、どんな時でも必ず右手。小さい頃からどの家庭でもこれは厳しくしつけられる。私は生粋の左利き-日本でもあえて右手でしたことと言えばペン習字の硬筆、毛筆ぐらい-なので、とっさに左手が出そうになるのを制するのがはじめは大変だった。数ヶ月で馴れたけどね。だけど馴れてからもやっぱり左手のほうが食べやすかったので、一人で食事をするときにはひそかに左手でスプーンを持っていたりした。誰かが来たらすかさず持ち替えたりして、何だか悪い事をしている子どものようだった。
いつも料理は数種類が大皿に盛られてテーブルにある。こちらの食事の仕方(他の地方はわからないけど、バリ人やロンボクのモスリムはこうしていた。華僑は中華式に箸を使うが・・・)は、まず自分のお皿(直径20cmくらいの浅いもの)にごはんをよそい、その周りや片側にそれぞれのおかずをスプーンなどで盛る。ビュッフェスタイルのよう。だけど自分のお皿に取ったものはよほどの事がない限りきれいに食べきらないといけない。お皿とAqua(アクア、飲料水)を持って、どこへでも腰掛ける。地べたはもちろん、玄関先、ベッド、庭のいす、、、但し絶対に井戸のふちには座らない。井戸は神様の宿る神聖なものなので。また、厳密に日本のような上座、下座はないけれど、父母やカーストの上の人、ゲストにはいすに座ってもらわないといけない。でないと他の誰もいすに座れない。地べたに座る時にはお尻が汚れないよう、自分のサンダルの上に座る。みんなで一緒に食べましょう、という時には全員が揃ったら食事が始まる。
普段の生活では、ここが日本と違うところなんだけど、いつも一日分のおかずとごはんを基本は朝準備する。そして台所のテーブルなどにドンと置いておく。家族やふらっと立ち寄った友人は気が向いた時に上記の作法で食事をする。だから誰がまだ食べていない、食べ終わったかわからないこともあり、自分が食べようと台所に向かう前に、”Sudah Makan(もう食事は済みましたか)?”とそこに居る人たちに尋ねる。そしてここがインドネシア人独特の気遣いなのか?食事がまだでも、”Ya, sudah. Silahkan makan(もう済みましたよ。どうぞ食べて)”と答えるのが普通。だけど私は馴れるまでいつもバカ正直に”Belum(まだです)”なんて答えて、”Ayo, mari kita makan samaan(じゃあ一緒に食べようよ)!”と言われていた。
小さい子からお年寄りまで、食事は普段右手の親指、人差し指、中指の第二関節まで(細かい)を使ってご飯やおかずをつまみ、口へ持っていく。揚げたてのものや炊き立てのご飯を触るのは本当に熱いし、香辛料をたくさん使ったものは食事後もしばらく手ににおいが残るし、色の濃いものは爪の中にまで着色して数日取れないし、それなりに気にしだすと気になったけど、こっちの人たちと同じ作法で同じものを食べる努力をしている。旅行客じゃないもの。
手で食べるけれど、指は口には入れないように、つまんだものをそっと親指を前にスライドさせて口の中に入れるのがコツ。右手は食事が終わるまではいちいち洗いに席を立たない。手拭きタオルなどもない。一人にひとつ用意されてある、目の前の小さい器(ボウル)に入っている水で洗うんです。 ただし男の人がちょこちょこボールで手を洗っているのは見たことがない。 彼らは食事が済んだらガーッと手を洗う。
食べる事に重きをおくのがこちら流。家族や友人など家に来てくれた人に対して、必ず食事を提供する。誰かが来てくれたら、”Selamat pagi/siang/sore/malam(おはよう/こんにちは/夕方のこんにちは/こんばんは).”のあいさつの後に必ず”Sudah makan(もう食事は済んだ)?”と尋ねるのがもてなしの基本。済んだと言われたら、近い関係の人なら「本当はまだでしょ?さあ!」なんてさらに食事を勧める。本当にお腹が空いていたらそこでご馳走になることもあるけれど、通常はもう食べてきたよと答えるのがスマート。だけど気を使わず頂くことになる場合もある。私はよその家では結構遠慮せずよばれていた。その方がどの家の人も喜んでくれた。その後、”Sudah mgopi(コーヒーは飲んだ)?”と尋ねる。コーヒーなら割と気を使わずに頂くことが多い。うちでは、コーヒーに砂糖とミルクは必ず入れていたため、お客にもあらかじめ”Mau kopi sama susu(コーヒーにミルクは入れる)?”と尋ね、すぐ飲める状態にして振舞う。gula(砂糖)なしではここのロンボクコーヒーは苦くて飲めないため、普通は聞かなくても勝手にスプーン2,3杯入れておく。ミルクといっても、日本や先進国のように冷蔵して輸送したり保存することが一般的ではないため、牛からしぼったままのフレッシュな牛乳は入手困難。そのため、粉末のものか、缶入りのコンデンスミルクが使われる。牛乳・・・そういえば外資系のでっかいデパートでたまに見かけた程度だった。高くてまずく、変に日持ちがするように加工されていて間違っても自然の味はしない。
すっかり話がそれたけど、いよいよ披露宴が始まるよ!
2001年5月29日、バリヒンズー教の神父、Priestが到着され、神様に結婚の赦しを乞う厳かな儀式の始まり。みんなより1段も2段も高いところに座られている。
Priestになれるのはバリ人のなかでも4つのカースト(身分)のうち一番上の位の人。ヒンズー教は元々インドから渡ってきた教えで、インドには今でも無数のカーストが存在する。バリのそれは、4段階に分かれていて、それぞれに今でも細かな決まりがある。昔は同じカーストの出身同士、もしくは女性が男性より下のカーストでないと結婚できなかったりしたそう。現代はそこまで厳密ではないけれど、それでも例えば女性が下位カーストの男性と結婚したら、「あの人は位が下がった」と言われたりはするので、ある程度の覚悟は必要らしい。
旦那の家族は上から二番目のカースト。どうやってカーストを見分けるかというと、名前を見る。うちのfamily nameはI Gustiだが、これで二番目だということが見分けられる。ちなみに一番上の人たちのはIda Bagusなどが始めにくる。family name, first name, middle name, それから家族代々受け継がれている名前も付け加え、旦那は6つの名前がある。スモモも6つ。下位カーストになると、first nameだけで姓がないのが一般的。
私はインドネシア語しか話せないので詳しくはわからないけど、バリ語というものがあり、バリ人同士なら必ずバリ語で話す。バリ語は日本語以上に尊敬語、謙譲語が詳細に分かれていて、相手のカーストによって変える。「水」という言葉ひとつでも、カーストによって3つの言い方があったり、すごーく気を使って話す。
ここロンボク島では、西側(バリ島に近い方)にうちのように先祖がバリから渡ってきた民族が暮らすけれど、その他の地域には先住のモスリム(イスラム教)が多く住む。だから当然、旦那の友達にはモスリムも、少しだけクリスチャンもいるんだけど、彼らと話すときはこちらの言葉。バリ語ともインドネシア語とも全く違う。もしくは共用語のインドネシア語。それを相手により巧みに使い分ける。これは子どもの頃から徹底的に教えられるので、ここに一緒に暮らす甥っ子たちも、家族と話すとき、モスリムの友達と話すとき、学校で話すとき、そして私のようなorang asing(外国人)と話すとき、言語を使い分ける。だから幼くして普通に3つの言語を操る。すごくない?
家に来ているお手伝いさんたちは、残念だけどあまり教育を受けていないので、この島の言葉しか話せない。だから私が彼らとコミュニケートする時は、簡単な言葉とジェスチャーが多かった。読み書きも独学だったりして、市場への買い物メモを渡しても、間違えて買ってきてくれたりすることも多く・・・例えば1kgのbawang merah(エシャロット)を頼んだら1個のbawang bombai(たまねぎ)が来たりgula putih(上白糖)がgula merah(黒砂糖)に変わっていたり・・・そのたびに勉強タイムだった。私も一緒にたくさん勉強。

見えるかな?たくさんお供え物があるなかで、豚の丸焼きも供え物のひとつ。これは表面をあぶって焼き目をつけているだけで中は焼けていないので、儀式が終わったらみんなで細かく切って分け、揚げなおして食べるんです。頭部以外は、普段豚肉をあまり食べない私でも、おいしく食べられます。頭部は・・・ちょっと・・・。ちなみにお供えの色とりどりの果物、お菓子なども全て後でみんなで分けっこです。子ども達がわんさか寄ってきます。甘いお菓子には、アリ達もわんさか寄ってきます。
家族も揃い、たくさんの人に見守られながら、儀式のはじまり。小さい子でもちゃんと民族衣装で正装。すぐ疲れて普段着に着替え、飽きて走り回るんだけど。でもお祈りが始まると、周りの人のまねをして上手にお祈りします。こういうとき、きょうだいの上の子が下の子に教えてあげ、お兄ちゃん、お姉ちゃんぶりを発揮します。小学校では”agama(宗教)”は必修科目。ヒンズー教の場合は”Om swasti astu”というあいさつからはじまり、お祈りの時の基本の言葉(これがものすごおく長い!)を儀式の作法同様、徹底して教え込まれます。私はというと、ロンボクに来た頃は見よう見真似で手を合わせてお祈りをしていたけど、自分より2回りほども年下の甥っ子が覚えようとしているのを見て、これじゃいけない!とすぐに小学校低学年用の宗教の教科書を購入し、必死で覚えたのでした。旦那いわく、「覚えようとしなくても、歌のようにふしをつけて毎日口ずさんでいればすぐに覚えられる」とのこと。なるほど。
神様や先祖のいる方角に向かって全員でSembahayang(お祈り)。バリヒン
ズーでは、北と東が聖なる方角とされています。寝る方向も、必ず北か東まくらにします。これらの方向に足を向けないように。
PriestにTirta(聖水)を頭からふりかけてもらい身を清めます。甥っ子達と。
儀式の後、道路を勝手にふさいで作った(!)披露宴会場へ。ガムラン隊を招き豪勢に。
私の家族は一番前の親族席で鑑賞。初挑戦にしてはバリ衣装が似合う!?でも4人とも普段より無口です。中でも一番ナーバスになってたのが兄。弟のほうが、せっかく来たんだし楽しもう♪って感じでした。父も若干テンパってたかな。母は堂々としていました。非日常の状況では女のほうが強い!!
ガムランの調べの後にはTarian Bali(バリ舞踊)。独特の動きに見とれました。
こんなに間近で鑑賞したのは本当に初めて。とってもきれい!!
披露宴の後には、家族と記念撮影。左がAjik(義理の父)、私の横が私の大好きなBi’Ayu(アユおばさん、義父のきょうだい)、その長男であり旦那のいとこののOmi。
2001年5月30日(披露宴翌日)、タクシーで街へ繰り出した。街の至る所で見かけるこの水色の車体、Lombok Taksi。信頼できるタクシー。インドネシアでは、車は日本と同じ左側通行で車も右ハンドル。なのにこの道、右側にも左側にも構わず駐停車している。実はこの通りはロンボク島の幹線道路で、一方通行なのでした。タクシーに乗ったら、日本と同じように行き先を告げてもいいし、「○○通りを北に向かって」とだけ言って、降りたいところで”kiri(左)!”と言えばすぐ左側につけて停まってくれる。本当にすぐだよ、後続の車にも構わず。ビビります。
インドネシアの道は、大きな道路でも路地裏の小道でも全てにJl.Pejanggik(プジャンギ通り)のように名前がついている。時には歴史上の有名な人物の名前であったり、Jl.Durian(ドリアン通り)みたいに果物の名前であったり、実に様々。家や建物の住所も、日本みたいに町名ではなく、Jl.Pejanggik no.115Aのように、○○通りの△番、といった感じです。
だけどそもそもこの島では郵便制度がきちんと整備されていないので、郵便物は家には届かない。どうするのかというと、自分で郵便物が着くのを見計らって郵便局に出向いて受け取る。荷物なんか届いたって、めったにわざわざ知らせには来てくれない。そして、ここでの悪しき慣習・・・荷物の中身をチェックするとかいう名目で、せっかく日本から日本食が恋しいだろう、と母が心を込めて高い送料を払って送ってくれた食品が、開封されちょっと目減りしていることなんか日常茶飯事だった!こんな時、いくら職員に「開けられて中身が減ってるんですけど」なんて詰め寄っても”Tidak tahu(知らないよ)”で終了。そのうちこちらにも知恵がつき、母や友人に、日本から何か送ってくれる際には、絶対に一つ一つの品物の詳細と個数を内容物として明記してね、と頼むようになった。そうしたらさすがに明らかな食料の目減りの頻度は少なくなったけど、まだ安心はできない!ダンボールの中身側に、”Jangan di ambil! Ini semua sudah dihitung!(中身を盗らないで!これらは全ていくつあるか数えられていますよ!)”なんて書いて送ってもらってました。その節は、皆様、ありがとうございました。
夜にはAjik(義理の父)の弟でクリニックを開いているAjik Doktorが近い家族を招いてパーティーを催してくれた。この写真は旦那の一番上の兄Gus Delと4人の子ども達。左から、Angga、Rian、Bagus、Anggi。AnggaとAnggiは双子。
上の妹夫婦。Ayu MegaとDodek、娘のGekMitha。Megaは口八丁手八丁。
いつも大きな声で話し笑い、臨月までバイクで街中走り回って働き、出産後数日で何食わぬ顔で職場に復帰した強者。いつも力になってくれた大事な人。
右端が義理の叔父のAjik Doktor。赤ちゃんは下の妹の長男Gus Dwi、抱っ
こしてるのはそのお父さんのTon。
その翌日にはKarang Janguにある、大好きなBi’Ayu(アユおばさん)の家を訪問。義父のきょうだい(たぶん妹)。義理の父と母は離婚して離れて暮らしてるので、いつも色んなことを義理の母の代わりに聞いてくれた人。太っ腹で、たくましくて、何があっても動じない大木のような人。何があっても笑顔を絶やさないお母さん。
6月1日には、Bemo(乗り合いタクシー)を借り切ってSenggigiへ。私は妊娠中期にもかかわらずここのところ少し無理をしていたので、この日はおとなしく休息。旦那と2番目の兄、私の家族が出かけた。
Bemoは普通は現地の人が最もよく利用する、庶民の乗り物のひとつ。バスのようなものだけど、バス停も時刻表ももちろんなく、いつでも通りかかった時に行きたい方向むいて走っているBemoを右手を挙げて停める。日本の軽のワゴンをちょっと大きくしたくらいの車に、多い時には10人以上が詰め込まれる。乗れないときは次のを待つか、無理やり後ろに必死でつかまって乗る。乗客は、学生、赤ちゃんを片手に市場の荷物をもう片手に抱える人、市場で売るための鶏をかごに入れてゴリ押しで乗ってくる人など様々。私はたまにしか利用しなかったけど、外国人が乗ることはめったにないので、乗ったらすごい視線を感じる。おばあさんが”Putih(白いね)”なんて言って腕をなでてきたりもした。料金は、1回乗って10分位走ったらRp.500(約6円)ぐらい。
Senggigiの海はとてもきれいだったそう。私の弟と旦那。そういえばロンボクで
は年中夏ということもあり、とくに猫も杓子も海へ繰り出すハイシーズンのようなものはない。だけど、バリヒンズーの教えでは山は神聖で海は悪いものの象徴らしい。なので現地の人はめったに海へは入らない。また、女の人が人前で水着に・・・はまずならない。
Senggigiビーチは砂浜というより土。足が
すぐドロドロ。
2001年11月19日08:00頃、出産予定日を1週間すぎて、やっとお腹が痛くなってきた。TaksiでPak Damanikの経営する、ロンボク島一番と言われる産院Trisnaへ。ここはロンボクでも割と裕福な夫婦が検診を受けたり出産したりするセレブな産院。なのに輸血の設備もなく、そういえば出産予約する際に「注射針等は新品を希望します。追加料金がかかることを了承します」といった内容の書類を書いたような覚えが・・・。
この土地では、妊婦は安定期に入ったら出産の瞬間までとにかく歩け!という教えがあり、私も妊娠中期以降は早朝にウォーキングに勤しんだ。どんどん胎児が下りてきて産みやすくなるんだから!と出会う女の人はみんな微笑んで口を揃えて言っていた。
産院では、陣痛の中、15:00くらいまで、本当に体中の力を振り絞っても足がそれ以上前に出なくなるまで廊下を行ったり来たりと歩きまくった。陣痛が来るたびにうずくまりそうになるくらい痛かったけど、それでも頑張って歩くと、不思議と痛みはすぐに去った。その後もうどうにも我慢できなくなり、分娩室へ。面白かったのが、分娩台の私を親類が取り囲んで見守ってくれたこと!近い親戚、遠い親戚にかかわらず、女性であれば分娩室へ出入り自由!って感じで・・・「どう?もう生まれそう?」って感じで出たり入ったり。頭が出てきたら、わあっとみんなから歓声が上がった。
そして18:15、限界に挑戦!のウォーキングのお陰か、初産にして安産そのものでスモモ誕生!3300gの大きな女の子!出産後、切ったところを麻酔もせずに縫ってもらう時には、Mbak Ani(アニーおばさん)がわざと面白いことをたくさん言って笑わせてくれ、あまり痛みを感じずに済んだ。とにかく、初めての出産、心細く感じる暇もなく、暖かい、なかなかできない経験になった。
インドネシアでは、生まれた赤ちゃんは手足をピンとさせて布を巻きつけて姿勢を固定する。はじめは何だかかわいそうに思ったけれど、よく見ていると、ぐるぐる巻きにされていたほうがスヤスヤ眠る。な、何故・・・?
出産後、まだ分娩室でしばらく休んでいる私の横を、旦那が何かを袋に入れて持っていった。何?と横にいた妹に尋ねると、「あぁ、あれは胎盤だよ」と一言。え?胎盤?何のために!?理由は後ほど。
11月20日、Mbak Umi(義理の母)と妹Megaがスモモに会いに来てくれた
。Umiは離婚してからイスラム教に戻った。6人の子どもたちの中でも一番素直に甘えにいかなかった三男の旦那を、実は一番心配してくれている。離婚後は年に数回しか会わなかったそうだけど、私は横で見ていてもUmiの息子に対する母の愛をたくさん感じた。
11月21日、スモモは周りの女の子の赤ちゃんと同じように、生後数日で両耳にピアスを開けてもらった。24金の輪っかのピアス。直径8mmぐらいだけど、赤ちゃんの指だと入りそう。引っ張ったりしないかな・・・?少し心配。ここでは、宗教にかかわらず女の子はピアスを開けるのが普通。生まれて少しして落ち着いたら、看護師さんに「さぁ、いつにする?」と尋ねられる。男の子は開けない。そのかわり、割礼のようなしきたりはある。これについては、スモモは女の子なので詳しくはわかりません。だけど何も新生児の時にピアスなんか開けなくても・・・と思うでしょう?これには理由があって、少し大きくなってから開けると、痛みを痛みとして感じてしまう、ピアスを気にして汚い手で触って化膿する、ということになりやすいからなんだそうです。何となく、納得。それにしても、生まれたてでまだ湯気が立ってそうな赤ちゃんにピアス・・・。そのあとも、儀式の度に赤ちゃんは身につける宝飾品を増やしていくのであります。
11月22日、産院を出て帰宅。例の島一番の産院だけど、分娩費用、2泊3日の入院費用
(ここでは初産でも帝王切開じゃないかぎり2泊3日が普通)、食事代、個室代、冷房費など全て込みで、日本円にして1万円台!!!日本じゃ40万円くらいでは?何だかこんな倹約をするつもりなんて全然なかったけれど、何だか得した気分。家ではAjikが待ってくれていた。帰るなりスモモをしっかり優しく抱っこしてくれた。Anak Jepang♪(日本の子)なんて歌いながら。さすがAjik、スモモで孫7人目、安定感のある馴れた手つき。
11月30日、ベッドでスヤスヤ眠るスモモ。枕もとには花の供え物。ここに聖水をふりかけてもらって神様に守ってもらっています。
また、こちらのヒンズー教の赤ちゃんは、生後しばらくしてからの儀式で、両手首に24金の腕輪、両足首に銀の鈴のついた足輪(?)をつけます。お守り代わりとのこと。そして、へその緒も、銀の小さな箱に入れ、祈ってもらってからネックレスのように首から下げる慣習があります。だけどスモモには、その小さな箱の角が少しとがっているのが心配で、身にはつけずに、部屋の東側に祭ってあるプランキラン(神棚)にいつもおいておきました。
12月1日、2番目の義兄のTitokと奥さんのMbak Ova、甥のAngga。Ovaはこの間まで学生だった。キリスト教の家系だったし、当時Titokには仕事がなかったし、しかもできちゃったしで、Ovaの親にはかなり反対された結婚だったけれど、何だかんだ言って幸せそうだった。だけど、となりの部屋で暮らしていて、彼女と私は距離が近すぎてよく冷戦状態だった。
12月2日、ここBertaisよりも少し街中のCakranegara, Mataramに住んでい
る飯塚さん夫妻と娘の亜弓ちゃんが訪ねてくれた。飯塚さんは私とは逆でインドネシア人の奥さんをもらい、それはそれで色々と苦労したようだった。それだけにいつも私の悩みや相談を聞いてくれ、ロンボクにいる間中、心強かった。日本に完全帰国してからも数年はやりとりしていたけれど、今もあの家で元気に暮らしているのだろうか?風の噂で、息子さんが生まれたとか・・・?
同じ日、大好きなBi’Ayuも会いに来てくれた。心優しいAyuおばさんに抱っこさ
れ、スモモはスヤスヤ・・・。Bi’Ayuに会うと、どうしていつもこんなに心が穏やかになるんだろう。スモモもそう感じてるよね。
12月8日、Mbak Aniが立ち寄ってくれた。このおばさんも私は大好きだけど、Bi’Ayuと違って少しガサツというか、何というか・・・ スモモもそれを感じ取っているのか、Aniおばさんだと抱っこしてもらっても泣き止まない。 すんません・・・。これは、お風呂に入れたあとからだを拭いてくれているところ。このあと、Minyak Kayu Putih(赤ちゃん用の全身用保湿、保温オイル。ハーブのとってもいいにおいがする!)を塗り、へその緒のとれたおへそを消毒し、肌着を着せるところまでテキパキとやってくれた。ありがとう。
2001年12月17日、マトゥラン。出産直後の女性は、生理中同様、血を流す事で汚れているとみなされるため、聖水をさわったり神様に関わる行事は行えない。今日は、やっと私もマトゥランができる解禁日。自分のからだを清め、無事に出産できたお礼としてお祈りをした。このプランキラン(神棚)に花や供え物を供え、聖水をふりかけお祈り。何の問題もなく妊娠中を過ごし、無事に出産できたことへのお礼と、これからスモモが病気をせず元気に大きくなりますように、とお願いした。ちなみに、このプランキラン、家の玄関を出て右側に立ててある。男の子が生まれたら玄関の左へ、女の子だったら右へ立てるのがならわし。この下には、スモモが生まれた時に一緒に出た胎盤(出産直後に旦那がそそくさと持ち帰った例のもの)が、専用のつぼに小刀などと一緒に入れられ、埋められてある。ここでは、胎盤のお陰で赤ちゃんが無事に育ちこの世に生まれて来れるという考えが強くあり、胎盤はいわば赤ちゃんのきょうだいなのだという。Umiいわく、この世に出てきたのは赤ちゃん一人でも、あと二人の見えないきょうだいがいるとのこと。一人は胎盤、もう一人は羊水。その生まれてきた赤ちゃんが天命を全うするその日まで、二人のきょうだいがその子を護ってくれるんだって。
日本だと、胎盤は病院で廃棄しないといけないので、理由があってももって帰れないはず。だけど、こうして赤ちゃんを護って無事に栄養を与えてくれた貴重な胎盤、お礼も言わず捨ててしまうのってよく考えたら寂しいね。胎盤がしっかり頑張ってくれて赤ちゃんが無事にお腹の中で育ってこれたんだもんね。
ドイツのデュッセルドルフにいる義弟夫妻の長女以外の孫が揃って記念撮影!スモモのプランキランの前で。「揃って」って言ってもこの子らのほとんどは同じ敷地内に住んでる。まさに大家族!!こちらの子どもは、とにかく親の言う事をよく聞く(様な気がする)。灰皿を取ってとか、小間使いにされてるのでは?と思う時もあるけど、何せどの子も弟や妹の面倒を非常によく見る。まだ小学校低学年ぐらいの子が赤ちゃんの弟や妹を抱っこして道を歩いている姿は日常の風景。ひとつのおもちゃを一緒に使う、サイズアウトの衣類や去年の学校の教科書は表紙が取れて中身が数ページなくなっていても自動的に下の子へ、なんてのはよっぽどの金持ち以外は当たり前。新しいものを買う余裕があってもなくても、こういうのは常識。すごいなあ。
12月21日、日本では寒い時期だけれどここインドネシアではとても暑い日。午前10時を
回るとぼちぼち耐え難い暑さが襲ってくる。だからこうして屋外にスモモをつれてきて涼み、あせもができないようにするんだけれど、スモモは家のマンゴーの木の下で抱っこするとなぜかいつもスヤスヤと寝てくれる。スモモを漢字で書くと李、木の下にいる子。まさにスモモじゃん!ナイスネーミング♪
12月31日、日本では大晦日。Bertaisの我が家では、新しい家族を迎え入れた家の至る
所を聖水で清める儀式を行った。遠い親戚のWa’Tukが取り仕切ってくれたんだけど、とにかく赤ん坊を抱いてついて来て!と言う割には何このスピード!?という速さで敷地中歩き回り、ついていくのが大変で、たまにちゃんと私がついて来ているか得意げな笑みを浮かべて振り返ってくれ、何だか笑いがこみ上げてきた。「はいはい、ドンドン清めていきますよー、さあついて来てねぇ」って感じで楽しくて。不謹慎にもニヤニヤしながら金魚のフンのようにとにかくついて行きました。
家の周りを清めたら、今度は家の中へ。おばあちゃんの姉?妹?とにかく親戚のNi’Maおばあさんがやってくれた。これはNatab(ナタッ) といって、dupa(長いお線香)の煙を浴びせる儀式。スモモが健やかに育っていきますように。
2002年1月3日、家の井戸の横でAjikに抱っこされて変顔のスモモ。この井戸は割と浅く、乾期(ほとんど雨が降らない)の昼下がりになると水がよく無くなった。そうなるとmandi(水浴び)はもちろん、料理もできない。夕方になるとまた少しずつ水が湧いてくるので、その瞬間にmandi!タイミングを逃すと、同居のほかの家族に貴重な水を使い切られてしまったり、夜になってしまったりと大変。何故って、いくら熱帯とはいえ、夜に真水を浴びるのは勇気がいるから。
熱帯気候って、一日中うだるように暑い・・・というイメージがあるかもしれないけど、私の経験から言うと、一日のなかに四季がある感じ。早朝は日本の春先のように涼しく、午前10時から夕方5時ごろまで真夏。でもその後夜中までは秋口、それから早朝まで半袖じゃ肌寒い感覚。要するに、昼前からの約7時間をどうしのぐかってことに私の関心は常にあった。こっちの人は屋外の木陰などで暑い時間をゆったりと過ごす。丁度暑い時間帯にはあまり外を動き回らない。歩くのも、動作もゆっくり。家にいた数人の通いのお手伝いさんも、ゆっくりゆっくり言われた仕事をこなしてくれていた。
そう、お手伝いさんといえば、うちは決して裕福な暮らしではなく、テレビは途中でおじさんからもらったし、洗濯機もない。でも、食べていけるだけのお金は充分ある。そこで、普通は貧しい生まれの人を数人、通いのお手伝いさんとして雇う。日本円でいう10円か20円ぐらいのお金で、早朝の市場への買い出し、料理、手洗いの洗濯、子守り、家の掃除、アイロンがけ等何でもしてくれる。はじめは、日本人の私は人にお金を渡して何かをしてもらうことに抵抗や遠慮があり、「よかったら手伝おうか?」なんて尋ねたりして、お手伝いさんに困った顔をさせていたものだったけど、あとになって、私が彼女らの仕事を奪ってしまったら彼女らはお金を得る術がなくなってしまうことになると気付いた。人に無償でお金やものを乞うのではなく、労働を提供して報酬を得ようとする彼女らのプライドを傷つけてはいけないなと思った。彼女らにしてみれば、うちはやっと得た働き口。辞めさせられないよう、一生懸命働きますっ!・・・ではないんだよ。これが。大雨が降ったり、子どもが病気になったりしたらすぐに勝手に休むし、病気のまだ治っていない子を抱いて現れたりするし(うちの子にうつるっ!)人によってはサボるし、ある日別れもお礼も言わずにいなくなるし。だけど、うちに来てくれる彼女らには、市場での値切り方、bumbu(バリ料理のソースや調味料)の作り方(石臼でエシャロット、にんにく、塩などを石でグリグリと挽くんだよ、私は何度聞いてもそれの名前が覚えられず、いつも「グリグリ」と呼んでいたので、いつしかうちではみんながグリグリと呼ぶようになった)、コーヒー豆の煎り方(かさを増やすために少しお米を混ぜて何時間も弱火で煎る)などほんとに色々教えてもらった。というか勝手についていったり横でじぃっと眺めていたりと、私は彼女らにとってはどんなにか変な外国人だっただろう。
コーヒーと言えば、ここではKopi Lombok(ロンボクコーヒー)を毎日飲む。ネスカフェみたいなきれいにお湯に溶けてしまう粉末ではなく、見た目は泥水のようで、粉っぽくて、飲むと口の周りや歯が真っ黒になる。だから私はいつも少し冷めて粉が沈むまで待つ。そうすると、いかにも今コーヒー飲みました、みたいな風貌にはならないから。また、ブラックで飲むには苦すぎるので、私はいつも砂糖と缶のコンデンスミルクを入れて飲んでる。これを飲んで私の一日が始まる。
1月19日、スモモ2ヶ月。このごろよく笑ってくれるようになってきた。下に敷いているのは日本の布オムツです。こちらではどんなにオムツをたくさん使っても、早朝に洗濯したら昼前にはカラッと乾くので、布オムツで快適。むしろ紙オムツの方が、通気性が悪く肌荒れの元になっていたはず。それに何よりインドネシア製のオムツは品質が悪く、かといって外国製のは食費よりずっと高価!じゃあこっちの人は何を使っているのかというと、いきなりパンツ!濡れるたび全身お着替えタイム。抱っこしてる時におしっこしたら、抱っこしてる人まで全身お着替え。それが普通。洗ってもすぐ乾くしね。なので私が日本の布オムツを持っていった時には、「使わなくなったらちょうだいっ」と予約殺到。こういうものがここにもあればいいのにね。
1月27日、スモモはクイーンサイズのベッドの上で遠慮なく寝返りを始めた。でも首はまだ頼りないから、頭を持ち上げることはさすがに無理だね。周りからはスモモはいつでもbayi cepat(成長の早い子)と呼ばれてた。
この頃、たくさんの予防接種を受けた。こちらの赤ちゃんへの予防接種はもちろん受けなければいけないけど、任意が基本。だから日本と違い、費用がかかる。BCG、Polio(ポリオ)、DPT(三種混合:百日咳、ジフテリア、破傷風)など、日本でも必須のものから、Hepatitis B(B型肝炎)のように日本ではしないものも。こちらではいまだにB型肝炎で亡くなる人や赤ちゃんがまだまだ多いそう。うちでは、家族に医者がいたので、スモモはほとんど無料で、しかも家に来てくれ接種を受ける事ができた。(でも費用の代わりに来てもらったお礼にお菓子や料理を振舞ってもてなしたので、あまり変わらない?)
数回、町内の巡回検診のようなものがあり、同じぐらいの月齢の子を集めて身長や体重を測ったり、お母さん同士おしゃべりしたりと楽しい時を過ごした。といっても、日中働かずに家に居られるような層のお母さんがほとんどだったけど。身長は、日本と同じやり方で(身長計は日本の協力隊JICA寄贈のもの)寝かせて測ってもらったが、体重を量るのが面白かった。いきなり端を結んだ風呂敷のような布(ちょうどコウノトリが赤ちゃんを運んでくるあのイメージ!)に入れられ、その辺の木の枝に吊り下げられて、昔の八百屋のような量り方で計量!きょとんと入っているスモモが愉快で、写真を撮らなかったことを後悔している。
2月18日、ちょっと早いけど、日本の両親が送ってくれたミッキー&ミニーのお雛様を飾った。周りの家族や友人は、日本の節句に興味深々。こちらには特に子どもの節句はない(はず)。でも私はあんまり日本の節句の由来とかに詳しくなく、もっと勉強しておけばみんなに教えてあげられたのに、と何度も思ったよ。
2月25日、家で育児と家事ばかりしてイライラが募っていた私だったけど、今日は贅沢にもtaksiでCakraのスーパーRUBYへ。ここにはなぁんでもあるし、庶民向けで安い。ストレス解消に?何やかやとすごくたくさん買い物をした。大好きなパン屋さんで色んな種類のパンも買った。久しぶりに外へ出て楽しかったぁぁ!
パンとかお菓子とか、甘いものはテーブルに置いておくとあっという間にすごい数のアリに食べられてしまう。すぐに甘いにおいを察知してどこにでものぼってくる、ここのアリはすごいなあ!!なんて感心してる場合ではなく、どうするかというと、甘いものを小皿にのせ、それをさらに少し深い皿の上に置く。そして深い皿には水を入れておく。そうすることで、アリは小皿にまではたどり着けない。
だけど今すぐに食べるわけじゃないし・・・というものをどう安全に保管するか?ある日ベッドの上のかもいに吊るしてみた。これで安心!と思って寝たら、次の日、見事に袋ごとねずみにかじられていました・・・。敵はうわてだ。色々試行錯誤し、とりあえず深めのタッパー(の模造品)に入れて保管することに。そうしたら!鮮やかな黄緑のタッパーだったからよけい目立ち、小さい甥っ子たちに中身をせがまれたのでした。
2002年3月4日、バリ暦で生後3ヶ月の儀式。

バリ人は本当に儀式が多い。赤ちゃんの3ヶ月の儀式はそこまで盛大ではなく、Priestが来て家族親類全員集合・・・とまではいかないが、なにやら意味深なことを今回もたくさん行った。たくさんのお供えもの、例によってWa’TukとNi’Maがほとんど全部の用意をしてくれた。額に清めたお米をつけたり、聖水で顔中びしょびしょにしてくれたり(スモモ大泣き)、お米をザァー、ザァーとザルの上でふって波のような音をさせたり、白い糸の束をおばあさん二人で引っ張り合ったり・・・おばあさん二人が糸を取り合っているようで、かわいくて、おかしくて、これまた私は不謹慎にも笑ってしまった。
3月15日、お昼からmandi。スモモはお湯の中で気持ちいいのかよく動くようになってきて、もうすでに私ひとりの腕では安全に支えて洗う事ができず、Ajik登場。そこへ興味深々のやんちゃな甥っ子たちが見学に。そこのシャンプー取って、それじゃないよ、そっちの白いの!、タオル渡して・・・などのお手伝いを進んでしてくれる子ども達。
そういえば私がインドネシア語を学んだのは7割程度は彼らからだった。いつも暇があったら、というか末っ子のRianは四六時中私のそばにいて(いなかったのはチフスにかかって外出禁止令が出た数週間だけ!)、いつでもApa namanya…? Apa Jepangnya…? (…はなんて名前なの?…は日本語でなぁに?)と質問攻め。私はたくさんの日本語の単語を彼に教え、代わりにたくさんのインドネシア語を彼から学んだ。インドネシア語は世界有数の簡単さらしい。だって主語、動詞、目的語全部ひっくり返ってても通じるし、動詞にはほとんど現在、過去、未来などの時制もなく、その上インドネシアの人たちはとても優しくて親切、私のつたないインドネシア語を所々助けてくれながら気長に聞いてくれた。この言語の簡単なところを例に挙げてみると・・・
Saya pergi ke toko roti. (私はパン屋さんに行きます。)
Saya mau pergi ke toko roti. (私はパン屋さんに行きたい。)
Saya pergi ke toko roti kemarin. (私は昨日パン屋さんに行った。)
Saya pergi ke toko besok. (私は明日パン屋さんに行きます。)
・・・ほら、簡単でしょう?一度、何でこんなにシンプルな言語なのかとAjikに聞いてみたことがある。彼いわく、インドネシアには1万を超える島々があって、島ごとに固有の言語が存在している。だけどそれじゃ島を渡って他の島の人と交流ができない。だから、どの島出身の人同士でも言葉が通じるように、インドネシア語というものがつくられたのだとか。さらに、インドネシア語がどの島出身の人にとっても第二言語になるわけで、習得に難くないよう、できる限りシンプルになっているのだそう。とにかく、私のインドネシア語は上述のとおりほとんど子ども達から習ったわけで、実はとても子どもっぽい言い回しだったり、ロンボク訛りだったりしてるらしい。
3月25日、スモモ4ヶ月とちょっと。髪をちょこんと結べるように。そうだ、髪で思い出した。こちらの子は男の子でも女の子でもできるだけ早い段階で丸坊主にしないといけないらしい。どうも生まれた時の髪は汚いものという考えがあるらしい。でも私は断固反対!だって女の子だよ?大好きな、尊敬する誰に「いつ丸坊主に?」と聞かれても、こんな時だけ私は「いやぁ、私orang jepang(日本人)なんでぇ」なんて言い訳して逃げてた。そのうちみんな言わなくなって助かった。
3月30日、ドイツのデュッセルドルフから弟のGus Ngurah、奥さんのErika、スモモの半年前に生まれたAyu Meraがはるばるやってきた!このカップルも私達同様、ロンボクにErikaが旅行に来て弟と出会い結婚した。当時すでに40歳を超えていたErikaと、一回り以上も年下の弟、誰もが心配したけれど、Ayu Meraのようなかわいい子も生まれ、順調にドイツで暮らしている。それにしても、ドイツの会社員はなんであんなに休暇が多いのかとうらやましい。年に数回、数週間とかひと月単位で休暇をとっている。それだけしっかり休みが取れてこそ、働いてお金を稼ぐ価値があると思う。日本だとなかなか(私は非常に安月給だったけれど)稼いだお金を気持ちよく使う機会がない気がする。
←スモモのひと月後に生まれた、Mbak Ovaの長男、Gus Ottiくん。生まれつき少し器官が弱く、かわいそうに新生児の頃からよく咳をしていた。
同じ日、こんなに普段集えないメンバーが集まったので、少し離れモスリムの街に住むお母さん、Umiに大勢で会いに行った。Umiは近くにいるのに頻繁に会えないことを嘆きながらも、いつものように私達を暖かく迎えてくれた。
3月31日、みんなで海へ。子ども率、高!甥っ子たちは普段両親が共働きのためあまりどこにも連れて行ってもらってないので、キャッキャ言って喜んでいた。
5月25日、cidomo(チドモ、馬車。ものすごくローカルだけど涼しくて運転手が汗臭くさえなければ安くて快適な乗り物)で街のショッピングモールへ。スモモも心地よい風を楽しんでたね!
5月26日、Bi’MegaとRian、Gek Mithaとベッドで遊ぶスモモ。
ここロンボク島では、電力が不足しているからか、このところ3日に1回は夕方6時から夜9時くらいまで完全にmati lampu(停電)になる。夜のこの時間帯って一番電気を使うよね。だから電気なしではなんにもできない。電気が明々と灯っているのは、近くのテレコムとお金持ちの自家発電装置のある家だけ。日本から来てすぐの頃は、停電って馴れなくて、やりたいことができないし、ろうそくの灯だけで過ごさないといけないし、不満だらけだった。でも周りの家族や友人は、ろうそくの灯で普通に生活してる。そのうち、私も、真っ暗な時には夜空の星の本当にきれいなこと(流れ星なんていっぱい見つけられた!)、ろうそくの灯で書いた手紙はなんだかロマンチックに仕上がること、何もすることがないので家族で灯を囲んで色々と語り合うことなどに喜びを感じるようになった。9時になると急に電気が点くので、そのまぶしさに一瞬目がくらんだり。でもこの停電があることで、普段何気なく使っている電気のありがたさをしみじみと実感した。
5月31日、遊んでばっかで離乳食を食べなくて叱られたスモモ。マンマだよ!
6月1日、たらいで機嫌よくチャプチャプmandiのスモモ。満面の笑み!お湯が白いのは、日本の母がスキナベーブを送ってくれたから。この香りがスモモも私も大好き。
6月17日、CakraのNi’MaにTirta(聖水)で清めてもらっているスモモ。
←Pekakに抱っこされるスモモ
6月22日、バリ暦の6ヶ月の盛大な儀式。家族親類大集合リターンズ。
この時の私のkebaya(民族衣装の羽織りもの)は、儀式のお祝いとして大好きなBi’ Ayuが反物でくれたのを仕立てたもの。既成品とか、ポリエステルのような化学繊維ではなく、体のサイズを詳しく測り、オーダーメイドで仕立ててもらったこのkebayaは、シルクで、私の持つどれよりも着心地がよく、刺繍が豪華で、どこへ着ていっても恥ずかしくないし、一番気に入っている。
かごの中には鶏とかを入れ、その周りを丸太を抱えた人、白い糸の束を抱えた人、スモモを抱いたAjik、何を抱えたか忘れた私とかみんなでぐるぐる回った。その抱えているものの意味をひとつひとつ聞いたのに覚え切れなくて残念。この子が将来何に長けているのかを占うらしい。たらいに浮かべた色んなもののなかで、スモモは木片になにやら字をかいたものをつかんだ。で結果は・・・何だったっけ・・・。文学に長けた子になる、とかだったような気がする。大事な儀式だったのに、内容をよく覚えてなくてごめん、スモモ!
何でか、こういう儀式のときにスモモは大泣きするんだよね。何かを感じているのかもね、と年配のおばあさんが言った。何か霊的なもの?
7月15日、帰国真近の私達が無事に帰り、私達の未来が明るいものになるようにと、出発前の儀式。
今日の儀式ではニコニコのスモモ。