'考察'


不時着現場。

工房内領域に入り込んでから騒がしく旋回を続けていたのでしばらく様子を伺う。アクロバティックに弧を描いたり、高度維持を試みたり、壁面に体をぶつけたり…そして、プッっと消えて—現れる。動から静への移行は見事である。「着地誤差0.5%以内、周囲の状況確認は…」といった計画的な航程を踏んでいるのか?それとも「ふぅ~、やれやれ。」といったふうなのか?外見からは掴めない…。
 
 
 

聴衆より、

 
「古道具 坂田」店主の坂田和賓氏の講演を聴きてきました。
古道具暦、40年あまり。店を始めた当時、お客に「ここではお金を頂くけど、一歩外に出たらただのガラクタですよ。」と言い添えていたらしい。今の時代は市場原理に多くのモノの値段が支配されています。元を辿れば、量産・複製技術の進歩、その均一化…人間にとって合理的に生産し消費するというシステムが構築されてきました。次第に消費することに重点が置かれ、そこに焦点を合わせた広告、流行、ブランド等が生産され、多くのモノの値段もそれらによって決められているようです。それはそのモノ自体の価値が値段に依存するという危険をはらんでいる。そういったことに対して、古道具屋という立場から疑問を投げかけ続けてきたということでしょうか。
近代から現代まで、目利きとして日本人のモノ選び(骨董・古道具)の指針を示してきた人物としては、利休、柳宗悦、白州正子を挙げてました。選びとはまず建築空間(生活空間・環境)があってそれに合うモノを見立て、取り合わせていくこと。彼らにとっては、茶室であったり木造の古民家であったとのことです。現代の建築空間は構造となる素材に関わらずクロス張りが多いのでしょうか。それでも、コンクリート打ちっぱなし、ペンキ塗り、構造用合板仕上げ、ガラス張りなど多種多様なようです。そうなってくると建築空間から見立て取り合わせの”選び”が進行していることになります。新たな空間が生まれ、それに合わせた選びが必要となってくる。モノづくりも同じく…ですね。
諸外国から日本人の選びに対しては、あいまい、やわらかい、かび臭い、そして良くわからないとの認識を持たれているようです。ヨーロッパ人の選びは、明確で骨格の強いものが選らばれるとのこと。それには気候、特に湿度の違いによる光の差し方であったり、国境の隔て方も選びに影響を与えているとのです。李朝のものでも日本では線のやわらかいものという認識がありますが、韓国に渡ってみると、「いや、そうでもないな」と。隣国とはいえ韓国は大陸の一部であるということ。そう考えると、日本は大陸の端にある島国であることにより他(国・文化・人種)を意識しない独自の選びの目を養ってきたということになるのでしょうか。
とにかく、締めは「既成概念に囚われず好きなものを選ぶ」でしたかね?脈絡のない…というよりだいぶ内容が飛んでしまって申し訳ないのですが…。 ただ話の内容よりも、やわらかいけれども確固たる信念を漂わせた口調であったり、あの聴衆に対する身体の向け方、少し遠くを見やる目線、そういった間合いの取り方に触れる為に講演を聴きにいったように思います。目白の店をたずねた時の事を思い出すと…モノ選びの鋭い目線、でも近寄ってみるととても気さくな人。小上がりに文机、うっすら照らされる店主、それに勝る古道具はなかったと思います。坂田氏は曲者ですが、それと釣り合わせるだけの素直さを持っているのだと。 
 
明確な部分は必要だが、それを取り巻くのは無限に広がるあいまいさなのだろう。そこに境界線はない。まず先に知識や経験の蓄積は必要だと思う。そういったことを繰り返していくと個々は次第に希釈されていく。しかし、その過程では濃度の偏りが出たり、それがスーッと溶け込んでいったりする。その変化の感触を感じ取ること。時に身を委ね、抗い、それでも存続し続けたモノが自分の歩む道を指し示してくれるのだと思う。
 
 

道具考。

一冊の写真集を手元に… 道具について考える。

 Copyright 1992 by Takenaka Carpentry Tools Museum
 
まず、鉋は引いて削る道具、鋸は引いて切断する道具。
日本で木工に携わっていれば疑う余地のないことである。しかし、ほとんどの諸外国ではまったく逆、押す時に切削が行われてきたということなのだ。この違いには加工対象となる材に起因しているとのことで、ヨーロッパではカシ・ナラ・ブナなどの硬い木質の広葉樹、日本ではスギ・ヒノキなどの軟らかい木質の針葉樹であった。
「押すと引く」の関係。平面のベクトルで考えれば+と-。そこに人間の軸が後ろにあるか、前にあるのかで下方向へ押さえ込む力が変わってくる。硬い広葉樹には力のかけ易い押し加工が適していたということ。それに比べ、針葉樹は軟らかいので切削にかかる負荷は小さいが、力押しでは逆目や逆目ぼれが発生しやすく、加工材に節が多く含まれる場合も多いと思われる。そのような点を考慮し、日本では加工材に出来るだけ負荷をかけずに切削する方法として引くというスタイルが確立されたのではないか。手入れのされた鉋は下に押さえなくても引くだけで削れるわけで、鋸も気持ち下を意識した引きだけで切断が進行する。日本の道具は刃物と動きの切れなのだと思う。
鉋に関して述べると日本では基本長方形である。見方によってはどれも同じ面構えで面白味がない。しかしよく見ると柾目台に追い柾台、褐色に色づいた油台、刃口の大きさやそこに金属板をあてがったもの、われを楔で留めたもの、台直しの繰り返しで薄くなったものなど見所は多い。話によると、関西では柾目台が好まれ関東では追い柾台、飛騨高山の道具屋も追い柾が良いと言っている。柾目台は狂いが少ない分、乾燥して割れやすい。関東では割れにくい追い柾台が好まれる。これはその土地の風土と気質の表れなのだろうか。いずれにせよ、湿度変動のある日本では鉋台が狂いやすく頻繁に手入れをしなくてはならない。それは加工対象となる木材も同じことで、その動きを予測し抑えるということの追求が日本人の気質のようなものへも繫がるような気がする。そして長方立方体の鉋台がカンナとなった。この形状は手になじみやすいとは言いがたいが、台の直しやすさ・削る時の水平確認・収納のコンパクトさなど、合理的なのは間違いない。直線、平面、直角、垂直、水平…求めるものがそのカタチに表れている。
この写真集を見るとこれらヨーロッパの道具は何かしらの突起があり、窪みがあり、曲線があり、モチーフがある。道具からその職人や作業光景、嗜好や意図するものを想像するのは、観賞的にみればおもしろい。何かしらの行為をするにあたって、その表出の仕方の違い、追及の矛先の違いが見てとれる。それに比べ、日本の道具はどこの道具屋に行っても足並みを揃えるかごとくあのカタチである。何かに基準を設ける、規制をかけるというこは、文化を継承していくために必要なことなのかもしれない。あと、大工道具と木工具の境界がないというのも日本の手道具の特徴とのこと。しかし、生活様式の変化に伴い、木工の需要が多様化してきた現在、この日本のスタイル、引きのスタイルに縛られる必要はないように思う。(これは手加工に関してのことだが…) そう捉えれていけば、逆にそのスタイルの良さを引き出したモノづくりへ向かえるのではないか?と考える。いや…でも、道具鑑賞は面白い。その道具を介してその時代背景、その土地の文化や風土を伝えてくれる。そういった固有性を備えたモノが、木工に限らずその原点を辿る道具となる。見失わないようにしたい。 
現在、自身の工房には木工機械が存在しない。手加工で硬い木を扱う上ではヨーロッパの伝統的な工具や加工法から学ぶことがあるのではないかと思う。巻末には百貨全書の図版に当時の作業光景と道具が載っており、こちらも大変興味深い。いつか、ヨーロッパで今も手加工を主としている工房に足を運んでみたいと思いを馳せてみる。